あれから13年の歳月が流れました。13年前のこの日、この時間。そうです、「阪神・淡路大震災」です。HPの方でも毎年この日には、新聞・テレビの様々な報道や私自身の当時の思いを書いていますが、何年経っても当時の被災者の方々、とりわけ肉親や大切な人を亡くされた方々にとってのこの日は思い出したくない日であると同時に、忘れられない日であると思います。
毎日の当たり前の日常が
この日を境にして
大きく変わってしまったんですよね。
それこそ当たり前のように目が覚めて、当たり前の1日が始まるはずだった1995年(平成7年)1月17日火曜日、午前5時46分52秒。淡路島北部(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3の兵庫県南部地震によって、6,000名以上の方の尊い命が奪われました。この震災について、私が心に深く刻み込んでいる言葉があります。それは「阪神・淡路大震災は一度の地震で6,000名以上もの方々が亡くなったのではなく、一人ひとりの命を奪った6,000回以上の地震があったと考えたい。」というものです。人の命をひとくくりにしたくない、してはいけないという思いを強く感じ、心に残っているのです。
私自身、当時の様子は今でもはっきりと憶えています。前日が成人の日(当時はまだ15日が「成人の日」でした)の振替休日だったのですが、運悪く風邪(あとでインフルエンザだと診断されました)をひいて熱が出て寝込んでいて17日を迎え、あの大きな揺れで飛び起きたのです。その後、テレビで阪神高速道路が倒壊している映像を見て「これって昔見た映画、日本沈没ちゃうん?」って思ったものです。で、刻々と被害状況が明らかになっていく中で、その被害の大きさに唖然としました。
この年、私の担当学年にも被災して親戚を頼って転校してきた子どもがいました。幸いにも亡くなられた方はなかったようですが、それでも住み慣れたところから知らない土地へやってきた子たちは、精神的にもきつかっただろうと思います。ましてや、親を亡くした子どもたち、逆に子どもを亡くした親たち、一人暮らしのお年寄りたちは・・・・と思うと本当にかける言葉すら思いつかない状態でした。
私は昨年度までいた学校で、淡路島に宿泊研修で行った際に「野島断層保存館」に行くことを提案したり、個人的に「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」へも行ったりして、当時の様子について自分なりに確かめてきました。
あれから13回目の1月17日を迎えることになったわけですが、建物など目に見える部分については復興できているものの、人の心はどうなんだろうと思います。悲しい記憶はけっして消えることはないでしょうし、あのときあの時間から時が止まったままの方も多くおられるのではないかと思うのです。亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、大切な方々を亡くされた方々が少しでも前向きになれるよう、心からお祈り申し上げます。
平成7年12月31日、朝日新聞・天声人語 より
新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ
大みそかに、いつもこの詩を思い出す。中桐雅夫の「きのうはあすに」である。
詩を思い出し、阪神大震災の記録を、また読み返してみる。これまでにわかっているだけで、死者は六千三百八人におよぶ。
夫も妻も、下敷きになった。手を握りあって、助けを待った。夫の声が聞こえた。
「俺は駄目かもしれへん。子どもたちを頼むー」「いい人がいたら一緒になれよー。三途の川を渡るなよー」。救助されたが、夫は死亡。四十一歳。
がれきの山の中から、三歳の娘の泣きじゃくる声がした。かぶさるように、「パパがもうすぐ助けるよ」と、三十三歳の父親の声がした。救助活動をしていた人が、娘を抱きかかえている父親の姿を、すき間から確認した。やがて、父親の声が絶えた。娘も、病院に運ばれる途中、亡くなった。
最初の揺れが去った後、いくつもの地区が、火に包まれた。七十三歳の父親が、下半身をがれきに挟まれていた。子どもたちが両手を思い切り引っ張った。炎が迫った。父親は、穏やかに言った。「もう行け、もう行け」
かわいがっていた孫を失った八十一歳の女性は、以来、持病の薬を飲まなくなった。孫の葬儀後、急速に衰弱した。「足手まといになって悪いな」ともらした。地震のあと、半月足らずで、孫の後を追った。
誰もが心優しい人たちだった。果てしない記録を読み、そして、亡くなった人たちのために自分は何をしたか、これから自分に何が出来るか、と問うてみる。詩は、こう結ばれる。
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、
眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける
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